ヒトは考える葦である。

「美」

これを見てどう思うかは人ぞれぞれ。

 

仮に、

「び」

という音としてこれを聞いたとする。

 そーしたら頭の中に、

美、日、火、冷、干、引、微、皮、肥・・・・・

という風に、

色々な文字を連想することができる。

 

言葉の成り立ちとして、

昔は同じ音は同じような意味で使われていた、

というようなことを聞いたことがある。

(不確かな記憶なので間違っているかも)

例えば神・髪・紙みたいに、

尊い存在のモノを同じ音で表現するように。

 

その視点をもって「び」を見てみると、

自然界にあるもの(起こる出来事)、

を表現したものが多いように感じる。

つまり、

「美=び」

とは自然界のあらゆるところに存在していて、

例えヒトがこの世界から消え去ったとして、

モノだけで創られた世界にも、

美は存在するのではないかと思う。

 

他方で、

「うつくしい」

という音としてこれを聞いたとする。

そーしたら頭の中には、

美しい、

という文字しか連想することができない。

そしてこの美しいが、

自然界に存在するだろうかと考えてみると、

ヒトの外側にはないように思える。

つまり、

「美=美しい」

とはヒトの中にあるものであって、

もしヒトがこの世界から消え去ったとして、

モノだけで創られた世界には、

美しいは存在しないのではないかと思う。

 

「美」はそのモノが持っている。

「美しい」はヒトが持っている。

似ているけれど、

どこか違う。

 

では、

ヒトはモノなのだろーか??

もしそうだとしたら、

ヒトは「美」と「美しい」の、

その両方を持ち合わせている唯一の存在なのかもれない。

 

最後まで目を通していただきありがとうございます。

 

神様は、

二本足で歩くこと、

言葉を自由に用いること、

の他にも、

こんな素敵な能力を、

私たち人間に与えてくれていたのですね。