「たそかれ」という話。

1月15日(金)~29日(金)までの2週間、

久茂地リバー沿いにありますたそかれ珈琲さんで、

言葉の展示、

「暮らす、綴る、繰り返す。」

をさせていただいています。

日々の生活で感じた事を10+αの物語にのせて展示しています。

このブログ上で、

展示している物語に副音声的解説を加えて、

1日1話づつ紹介していこうと思っています。

 

今日はその第7弾です。

(以下、展示しているお話です)

 

「たそかれ」

 

PM 3:25

 

久しぶりの休日だからどこか出かけようよと、昼寝をしていた彼をたたき起こす。

珍しく早起きなんかするから昼間寝ちゃうんだよ、

と文句を言おうと思ったけれど、

黙っておいたほうがスムーズに物事が運ぶ、

ということを私は過去の経験から知っている。

 

彼は思いのほかすんなりと起きて、私を珈琲屋さんにつれてきてくれた。

 

店内をぐるりと見渡す。

店主が1人と、

カウンターに男の人が1人、

隣のソファーに女の人が1人。

壁には物語なのかメモなのか、いくつかの文章が置かれているけれど、

勝手に触れていいものなのかわからず、また店内をぐるりと見渡す。

 

彼は珈琲を、私はカプチーノを頼んだ。

待っている間、彼が初めてこのお店に来た時のことを話してくれた。

 

家以外で本を読める場所をフラフラと探していたら、このお店に辿りついたらしい。

その時は1つのテーマをもとに撮影された写真がいくつも壁に飾られていて、

今の店内とは少し印象が違ったみたいだ。

奥の席に座り、本を読みながら珈琲を飲んでいたら、

「どの写真が1番好きですか?」って店主に聞かれたので、

自分が思い浮かべた画と1番かけ離れている写真を選んだらしい。

 

運ばれてきたカプチーノを飲みながら、

「そのテーマを聞いてあなたは何を思い浮かべたの?」と聞いたら、

誰かに声をかけられたけど、顔がはっきり見えなくて誰なのかわからない、

という画が思い浮かんだらしい。

 

私にはその画とテーマを結び付けることができなかったし、

自分の思い浮かべた画と1番かけ離れている写真を選ぶ理由もわからなかった。

だけど、

彼がいつもより饒舌に話し続けていたので、何も言わずに窓の外へと目を向けた。

 

窓の外では人や車が道路を行き交い、

傾き始めた太陽が、建ち並ぶビルの群れに影をつくりはじめていた。

 

(以上、展示しているお話です)

 

これは言わずもがなですが、

たそかれ珈琲さんに初めて訪れた時のこと、

が物語のベースになっています。

 

自宅以外でどこか読書のできる場所はないだろーか、

とずっと探していて、

たしか美容院に行った帰りだったかな、

車で久茂地リバー沿いを走っていた時に見つけたんです。

たまたま。

その当時は僕は珈琲はあまり好きではなくて、

どちらかというと紅茶が好きだったのですが、

なんだかその時は、

ここの店に入っておいたほうがいい、

というような感覚になって、

本を1冊持って、1人でお店に行きました。

 

その時は「たそかれ」をテーマにした写真が、

お店の白い壁にいくつか飾られていました。

(その数年後、自分がその壁に展示をするとはこの時はまだ知る由もない・・・)

奥のソファー席に座り、

特に会話もせずに、

本を満足いくところまで読み込みつつ、

壁に飾られた写真をぼんやりと眺めていました。

珈琲を飲み終え、

(たしかこの時はミルク使ってたんじゃないかなー、もしくはカフェラテだったか)

お会計のために移動すると、

「どの写真が好きですか?」と。

 

「たそかれ」という言葉は、

黄昏=夕焼け、夕暮れ時とかを表しているけど、

夕焼けで薄暗くて誰なのか顔がはっきりわからない=誰そ彼、

が由来である、ということをうすーく知っていたので、

(間違えてたらごめーんね)

もし僕が「たそかれ」をテーマに写真を撮ったりするとしたら、

夕日をバックにして顔が影になっちゃっている人、

っていう画を思い浮かべるなーと思っていて。

 

でも、

そういった写真はその時展示されていたものの中にはなくて。

(見落としていたらごめんなさい)

っで、

自分の想像の範疇にないものは新鮮で面白いから、

否定するよりも積極的に認めた方がいいんじゃないか、

という持論から、

自分の思い浮かべた画と1番かけ離れている写真を選びました。

 

ヒトは誰しも、「共感してほしい」と思うものではないでしょーか。

自分が好きなモノ、情熱を注いでいるモノを、

否定されたり、批判されたり、関心を抱いてもらえないと、

悲しい気持ちになりますよね。

それなのに、

自分の理解できないモノや、自分の考えと異なるモノは、

無視してしまったり、嫌いになってしまうこと、

少なからずあるんじゃないでしょーか。

自分のことは好きになってもらいたいのに、

他人のことを好きになる努力はしないって、

ずるくない。

 

やっぱり、

自分のことを好きになってもらいたかったら、

他人のことを理解することからはじめたらいいんじゃないかなー、

と思いながら、この物語を綴ったのでした。

 

僕の綴った物語を否定するのではなく、

疑問を抱く、というような優しい気持ちで読んでいただけたら嬉しーです。

 

最後まで目を通していただきありがとうございます。

 

展示8日目終了でございます。

「角度」という話。

1月15日(金)~29日(金)までの2週間、

久茂地リバー沿いにありますたそかれ珈琲さんで、

言葉の展示、

「暮らす、綴る、繰り返す。」

をさせていただいています。

日々の生活で感じた事を10+αの物語にのせて展示しています。

このブログ上で、

展示している物語に副音声的解説を加えて、

1日1話づつ紹介していこうと思っています。

 

今日はその第6弾です。

(以下、展示しているお話です)

 

「角度」

 

PM 2:13

 

窓から差し込む光が、カーテンや家具にぶつかって屈折し、

床に色々な模様をつくっている。

小さい頃、

こうやって窓から差し込んだ光が、

1本の線になって床に届く様子を見て、

「キラキラしてきれい」って言ったら、

「あれは埃が空中を舞っているだけだよ」とさらっとお母さんに返された。

手が泥だらけになることも、

絵の具が顔についてしまうこともいとわなかった幼い私にも、

埃は汚いもの、という認識はあったから、

少しショックだったことを今でも覚えている。

 

「気が付いた人が、できる時に、できるだけやる」

というのが我が家の家事のルール。

こうやっていつもと違う時間に掃除をしていると、

普段は目が届かないところにまで光が差し込むので、

埃がたまっているのが見えてしまう。

見なかったふりをするわけにもいかず、

床に這いつくばって隅々まで掃除をする。

人間は両手を自由に使用するために二足直立歩行をはじめたらしいけど、

こんな時ばかりは四足で移動ができたら楽なのに、

と思いながら疲れた腿を揉みほぐす。

 

少し休憩しようと床に腰をおろし、

大の字に寝転がってみる。

久しぶりに床に寝転がったせいか、天井がとても高く見えた。

窓から差し込む光が、カーテンや家具にぶつかって屈折し、

床だけでなく、壁にも色々な模様をつくっている。

「やっぱりキラキラしてきれいじゃん」

 

そろそろ出かける準備をしなきゃいけないのはわかっていたけれど、

この時間にもう少し身を委ねておこうと思い、

私はそのまま目を閉じた。

 

(以上、展示しているお話です)

 

玄関のドアスコープから室内に差し込む光が収束して、

その向かい側にある壁に外の景色と同じような色を映し出していることがある。

これを見つけるたびに、

カメラの仕組みってこういうことなんだよなー、

ということを思い出す。

 

現代ではカメラは手のひらサイズくらいのものになっているけど、

昔、昔のそのまた昔の頃は、

プレハブ小屋みたいな大きな箱に小さな穴をあけて、

壁に映し出された景色を模写して風景画を完成させていたとか。

それで「カメラ=暗い部屋」という由来だと、

そんなよーなことを聞いたことがある。

 (間違っていたらごめんなさい)

 

そして、外に出るために玄関を開けてしまうと、

光が一気に入り込んでしまって、

壁に映し出された色は消えてしまう。

(これカメラでいう白飛びの状態ですかねー) 

 

僕の中の勝手な統計では、

日本人ははかないものが好きである。

花火とか、

流れ星とか、

虹とか、

夢とか。

たぶんこれもそーいった類のものなのではないでしょーか。

光は明暗や影だけでなく、

色も創りだしているのはおもしろいよなーと思い、

光に焦点をあてた物語をつくってみたら、こんな感じになりました。

必ず見られるものではなくて、

天気とか時間帯、

光の角度によって外の色が映し出されている場合があるので、

みなさん見つけてみてね。

 

そして角度という視点で考えてみると、

部屋の掃除をしたあと、いつもより部屋が広く感じる、

ということがあります。

散らかっていたものが整理されて、

有効利用できるスペースが増えたから、

ということもあるでしょうけど、

床に這いつくばったり、

家具の裏をのぞき込んだり、

家の中の隅々に目を向けることで、自宅内の環境を把握しなおしたから、

ということも関係しているのではないでしょうか。

ほら、

飲み会なんかで、

ずーっと自分の席に座っていると、

誰が来ているのかわからなくて落ち着かないけど、

乾杯の合図でいったん立ち上がってみんなのところに挨拶周りをすると、

誰が来ているのか把握できてほっとするみたいな。

そんな感じ。

 

これらのことを整理すると、

モノの見え方が変化するには2通りのパターンがある。

1つは、

自分以外のモノが変化して、自分に違う景色を見せてくれているパターン。

もう1つは、

自分の立ち位置が変化して、自分で今ある景色を違うモノとして解釈するパターン。

の2つ。

だからね、時々気を付けないといけないなーと思うわけ。

周りのモノが違って見えた時に自分が成長したからだって勘違いしてはいけない、

って。

すべてがすべて後者じゃなくて、前者の場合もある。

むしそのパターンのほうが多いのかも。

 

こうやって文章を綴って色々表現できるようになったのも、

自分が成長したからだけでなく、

違った景色を見させてくれる周りのヒトやモノのお陰でもあるんだよなー、

と思いながら、この物語を綴ったのでした。

 

展示している物語の解説も後半戦に突入しています。

これまでの物語や登場人物なんかをふわっと思い出しながら、

今後の話にも目を通していただけたら嬉しーです。

 

最後まで目を通していただきありがとうございます。

 

展示7日目終了でございます。

「ランチタイムブルース」という話。

1月15日(金)~29日(金)までの2週間、

久茂地リバー沿いにありますたそかれ珈琲さんで、

言葉の展示、

「暮らす、綴る、繰り返す。」

をさせていただいています。

日々の生活で感じた事を10+αの物語にのせて展示しています。

このブログ上で、

展示している物語に副音声的解説を加えて、

1日1話づつ紹介していこうと思っています。

 

今日はその第5弾です。

(以下、展示しているお話です)

 

「ランチタイムブルース」

 

PM 0:15

 

人間が食事をしている姿はとても美しいと思います。

色鮮やかに盛り付けられた食物を、

箸やスプーン、ナイフとフォークなどの道具を駆使して口元に運ぶその姿は、

身体機能的にも、文化的にも、動物の進化の最高傑作なのではないかと思います。

 

僕は飛行機での機内食が苦手です。

英語でのやりとりに自信がないから、というのもありますが、

これと言ってお腹がすいたというわけでもないのに、

決められた時間に食事が配膳され、

断ってしまうと万が一お腹がすきはじめた時に困る、といった程度の理由で、

黙々と食物を口元へ運んでいくその姿が、なんだか滑稽に思えるからです。

 

僕は仕事場での昼食の時間も苦手です。

集団の中で会話をすることに自信がないから、というのもありますが、

さっきまで一生懸命汗を流して仕事をしていたのに、

お腹がすいたからという理由ではなく、時間がきたからという理由で、

我先にと食物を口元へ運んでいくその姿が、なんだか滑稽に思えるからです。

 

午前中の仕事を終え、ゆっくりと昼食を食べ始めました。

僕の左隣にはテレビがあって、お笑い芸人が健康食品の紹介をしています。

こういった内容にはまだ関心がないので、

音は耳に届いていますが、脳までは届いていません。

右隣には男の先輩がいて、「ご飯を食べる時にスポーツドリンクはないでしょ」と、

タンブラーを片手に持論を展開しています。

その向かい側には女の先輩がいて、「わかるー」と共感のフレーズを口にしています。

本当に共感しているのかはわかりませんが、

相手の意見を否定せず、しっかり受け止めてあげるあたりはさすが人生の先輩。

見習いたいなと思います。

僕の前には同僚の女の子がいて、先輩達の話を聞いています。

動物や花に声をかけちゃうような少し不思議な子で、

感情があまり表情に出ないタイプ。

先輩の前でも自分のスタイルを貫いているあたり、さすがだなと思います。

 

こんな光景をじっくり眺めているのが好きです。

 

こうやって隣にあの人がいて、

こんな話をしているこの時間が、

もうそんなに長くはないということを知ってしまったので。

 

(以上、展示しているお話です)

 

ふとした時に、

この時間が一生続いたらいいのになー、

なんて思うことがある。

でも、それを後で振り返ってみると、

何をやっていたのか、何を話していたのかほとんど覚えていない、

ということが多い。

正確には、覚えていないというより、説明できないというほうが正しいだろうか。

 

僕は間もなく今住んでいるこの土地を離れる。

それが決まってから、

よりいっそうこういう感情を抱くようになった。

 

次にやりたいことの方向性が定まって、

この土地を離れることが正式に決定してから、

今やるべきこと、今だからできることってーのが明確になったので、

何をやるにもいい意味で吹っ切れた感がある。

距離を知らされないまま長距離走をスタートしちゃたから、

どんなペース配分で走り続けたらいいのかわからなっかたし、

いつまでこれが続くんだろうという不安もあったけど、

ゴールテープが見えたおかげで、

自分にはこれくらい余力が残っている、

だとしたらあの辺りからスパートをかけられそうだとか、

あと少しだから燃え尽きてもかまわないとか、

そういう吹っ切れた感じ。

(実際は長距離走ったことないけどねー)

今やっていることの「終わり」を設定したことが、

いい方向にはたらいているなと思っている。

 

その一方で、

今やっていることの「終わり」が見えてしまったことで、

何をやっても、何を話しても、

その物事の端々に寂しいっていう感覚が付随してしまうようになった。

こうやってみんなと遊ぶのあと何回あるかなーとか、

この人と仕事するのはあと何日なんだなーとか。 

 

この時間が永遠に続かないことは知っているけど、

この時間が少しでも長く続いてほしーなと思う。

たとえ毎日同じ光景のランチタイムであったとしても。 

 

何やかんや説明してみましたけど、

よーするに、

悲しいんじゃなくて寂しいだけさっ、

と自分の中の森山直太朗的な部分と向き合いながらこの物語を綴ったのでした。

 

この物語を読んでくれた皆さんがそれぞれ何か感じていただけたら嬉しーけど、

この物語に関しては、

いつも遊んでもらっている人たちに何かメッセージを伝えられたらなー、

という想いをやんわり含ませたつもりなので、

それが伝わったら嬉しーです。

 

最後まで目を通していただきありがとうございます。

 

展示6日目終了でございます。

「日課」という話。

1月15日(金)~29日(金)までの2週間、

久茂地リバー沿いにありますたそかれ珈琲さんで、

言葉の展示、

「暮らす、綴る、繰り返す。」

をさせていただいています。

日々の生活で感じた事を10+αの物語にのせて展示しています。

このブログ上で、

展示している物語に副音声的解説を加えて、

1日1話づつ紹介していこうと思っています。

 

今日はその第4弾です。

(以下、展示しているお話です)

 

「日課」

 

AM 9:30

 

「いつも色々なところに出かけて楽しそうですね」と最近よく言われる。

確かに毎日楽しく過ごしているので、

それを褒めてもらえるのは嬉しいことだけど、

少しだけ反論したい気持ちもある。

 

私が休日を楽しく過ごす方法の1つに、

いつもの日課を少しだけ崩す、

というのがある。

例えば、

「掃除をしてから買い物に出かける」というのを、

「買い物を済ませてから掃除をする」というふうに。

 

たったこれだけで、

いつも暖かい外の空気がとても冷たく感じたり、

いつも工事の音で騒々しい道路で鳥のさえずりが聞こえたり、

いつも水で隠れているマングローブの根が顔を出していたり、

いつもパンの香りのする店内でフルーツの香りを感じとれたり。

 

「いつも」の中に必要なモノや大切なモノはすでに存在していて、

色々なところに出かけなくたって、

それを発見して楽しむことはできると思う。

 

そうそう、

今日は仕事に出かけた旦那のタンブラーの中身を、

いつもと違うものにしてみたんだよね。

お昼ご飯の時、どんなリアクションをするだろうかと、

そんなことを想像して過ごす。

 

それだけで、

私の休日は楽しいのである。

 

(以上、展示しているお話です)

 

沖縄に移住してから、

「いつも色々なところに出かけてて楽しそうだね」

って本当によく言われるようになりました。

移住して間もない頃、

実際は1年くらいはそうだったかもしれないけど、

行ってみたいお店、見てみたい景色などを、

旅行雑誌やネットの情報から見つけて、

休日のたびに足を運んでみる、なんていう生活をしていました。

内地出身の僕にとって、

沖縄で毎日を過ごすということは、

非日常的というか、スペシャル感があって、

せっかく沖縄に居るんだからそれらしいことしなきゃ、

っていう変な力の入れ方をしていたんだと思います。

 

沖縄での生活に徐々に慣れ、

一般的に紹介されている観光スポットにはだいたい足を運んだ頃、

そろそろ次は離島に行ってみようかと計画をたてていたのですが、

そんなにたくさん休みがあるわけでもないし、

暮らすためには遊んでばっかりいるわけにもいかないし、

といった理由でなかなかそれが実現できなくて。

 

そんな時、本文に書いたようなことを思いついたんですよね。

そーだ、

どこにも行けないなら、毎日の生活を楽しめばいいじゃねーか、と。

そんなふーに思ってから、

なんだか少しだけ余裕をもって周囲が見渡せるようになって、 

色々なことを発見できるようになりました。

その多くが、発見というには大袈裟なことばかりかもしれないけど、

雑誌やネットの見出しにばかりくいついていた僕にとっては、

とても大事な刺激だったのです。

 

沖縄という土地が僕にとってスペシャルな環境であることは変わりない。

だけど、移住前、移住直後と、今とでは、確実に見え方が変化している。

それは、

憧れの土地が生活する場所になってしまったから、

というネガティブなものではなく、

外から見ていたモノの中に自分も少し溶け込んできているから、

というポジティブ なものとして捉え、

これからもこーいう生活スタイルを続けていこーと自分自身で確かめながら、

この物語を綴ったのでした。

 

この女性はタンブラーの中身を何にしたんだろうねーと、

妄想を膨らませながら読んでいただけたら嬉しーです。

 

最後まで目を通していただきありがとうございます。

 

展示5日目終了でございます。

「私だけが知っていること」という話。

1月15日(金)~29日(金)までの2週間、

久茂地リバー沿いにありますたそかれ珈琲さんで、

言葉の展示、

「暮らす、綴る、繰り返す。」

をさせていただいています。

日々の生活で感じた事を10+αの物語にのせて展示しています。

このブログ上で、

展示している物語に副音声的解説を加えて、

1日1話づつ紹介していこうと思っています。

 

今日はその第3弾です。

(以下、展示しているお話です)

 

「私だけが知っていること」

 

AM 8:46

 

中学生の頃から朝食は食べない習慣だった、らしい。

お腹がすいて目が覚めてしまう私には全く理解できない話だ。

朝食はご飯でもパンでも、場合によっては麺でもいいのだけれど、

「朝はパンでしょ」

なんて、まるで世界の常識みたいな言い方を彼がするから、

2人で朝食を食べる時は必ずパンを用意している。

あなた朝食は食べない習慣だったんじゃないの?

という反論はしない方が穏やかに過ごせる、

ということを私は過去の経験から知っている。

 

かるくトーストしたパンを、

トマトや卵を調理したものと同じ皿にのせる。

バターをナイフの先っちょですくい、

ちょんとパンにのせたその時から、

すでに口があきはじめている彼の姿を見るのが、

けっこう気に入っている。

このことを彼には伝えない方が爽やかに過ごせる、

ということを私は過去の経験から知っている。

 

それなのに彼は、

「このバター冷蔵庫味しちゃってない?」

なんてムードも洒落っ気もないことを言いながら、

普段あまり飲まない缶珈琲をコップに注いでいる。

いつの間に買ってきたの?

と追及しない方が楽しい朝食の時間を過ごせる、

ということを私は過去の経験から知っている。

 

久しぶりに飲む缶珈琲は、とても優しい味がした。

思わずはにかみそうになるのを隠すため、

私はパンを小さくちぎって、

口の中に放り込んだ。

 

(以上、展示しているお話です)

 

誰にでも、

繰り返し使いたくなっちゃうお気に入りの言葉、

というものがあるのではないでしょうか。

僕の中にはいくつかのお気に入りフレーズが存在していて、

今回はその中の1つ、

「このバター冷蔵庫味しちゃってない?」

を本文中に登場させました。

この言葉を使う場面は日常生活で頻繁にあるわけではないけど、

その場面が想像しやすい、ってのと、

音の調子がいい、ってので気に入っています。

このフレーズを中心に色々な言葉をプラスしていったら、

こんな物語ができあがりました。

 

「このバター冷蔵庫味しちゃってない?」

というのは、

バターが冷蔵庫風味になっちゃって最悪だなーな状態、

なのですが、

口の中を冷蔵庫バターがコーティングするその向こう側に、

実家の食卓が思い浮かんでしまって、

なんだか センチメンタルジャーニー、という感じを表しています。

(きっとこのままでは何も伝わっていないので、もう少し説明すると・・・)

 

僕の実家では、

パンを食べる時、バターの容器が食卓にポンっと置かれ、

各自好きなだけ塗り塗りして食べるのですが、

この時使用したバターナイフをそのまま容器に戻してしまう、

というのがまぁ普通のことだったんです。

(今思えば、そんなことしたらあかんやろー、と叫び狂うところですが)

バターナイフが入っているってことは、

当然その容器は密封することができないので、

冷蔵庫の中で思う存分、空気を吸い込みまくるので、

結果、「このバター冷蔵庫味しちゃってない?」という風になるわけです。

 

今ではこういう状態になってしまうことはほとんどないけど、

パンにバターを塗るたびに、

このことを思い出すんだよなー、

と、少し懐かしい気持ちになりながらこの物語を綴ったのでした。

 

今思えば後ろめたいことかもしれないけど、

当時はそんなの普通だったし、気にも留めなかったこと、

ってーのがあるのではないでしょうか。

昔のことを思い出して、少しはにかみそうになりながら読んでもらえたら嬉しーです。

その時はパンを口の中に放り込んで、

はにかみそうなのを隠してくださいね。

 

最後まで目を通していただきありがとうございます。

 

ちなみにですが、同義語に、

「この氷冷凍庫味しちゃってない?」がありますね。

・・・では、展示4日目終了でございます。

「タンブラーの中身」という話。

1月15日(金)~29日(金)までの2週間、

久茂地リバー沿いにありますたそかれ珈琲さんで、

言葉の展示、

「暮らす、綴る、繰り返す。」

をさせていただいています。

日々の生活で感じた事を10+αの物語にのせて展示しています。

このブログ上で、

展示している物語に副音声的解説を加えて、

1日1話づつ紹介していこうと思っています。

 

今日はその第2弾です。

(以下、展示しているお話です)

 

「タンブラーの中身」

 

AM 7:42

 

「早くしないと遅刻するよ」

という声が耳に届いたが、

それには反応せず、

テレビの中からジャンケンを挑んでくるお姉さんの声に反応してしまう。

「ジャンケンは何かを決める時にやるものであって、

勝った負けたを純粋に楽しむものではないのでは」と。

そんな批判的な意見ばかり思い浮かぶ自分の思考回路に嫌気がさす。

 

「もうこんな時間だよ」

と催促する声が耳に届き、

あまり乗り気ではなかったけど、

ソファーからゆっくりと腰をあげ、誰に聞かせるでもなく返答してしまう。

「この時間だったら絶対遅刻しないよ。

仮にこの時間に家を出て遅刻したら、それは世界のせいだ」と。

そんなひねくれた言い訳を用意している自分の思考回路に本当に嫌気がさす。

 

玄関で靴を履きながら、お弁当の入った袋を受け取る。

「そういえばさ、このタンブラーの中身って、お湯の水割り?それとも水のお湯割り?」

という私の質問に、明らかに表情が変わる。

怒ったというより、呆れたという表情に。

 

「これってけっこう大事なことなんだよ。

どっちが主導権を握っているか、ちゃんと確認しておかなくちゃ」と伝えたが、

返答は得られないまま、ため息まじりの声とともにドアの外へとおしやられた。

 

物事がうまくいっているときこそ、

主導権がどこにあるか確認しておかないといけない。

ほら、

パスを回されているのと、

パスを回させているのでは、

同じように見えて、全然違うだろ。

という小さい頃に教えてもらったことを思い出しながら階段へと向かう。

 

階段の前で一度立ち止まり、手を振る。

あんなにそっけなかったのにしっかり見送りしてくれる。

さぁ、今日も定時で帰ってこよう。 

 

(以上、展示しているお話です)

 

以前、職場の同僚に、

「あなたが自由に行動しているふうに見えて、

実は奥様がそれをしっかりコントロールしている感じがいいよね」

と、我が家の夫婦関係を褒めてもらったことがありまして。

(実際にはこういう表現ではなかったけど、こういうふうに解釈しました。

意味間違えてたらごめーんね)

 

自分ではそういう意識はまったくなく、

その観点でみたらむしろ逆じゃねーか、

と思ったので、はっとさせられました。

 

 自分の行動や感情は、

すべて自分が生み出しているわけではなくて、

周りの物事によってそうさせられている部分っていうのがあると思います。

その時に、

「そっちがそうくるなら、こっちはこう」

みたいな、一歩引いた対応というか、一度こっちの解釈を挟んだうえで返す、

ということをするだけで、

その次の物事が喧嘩に発展せず、円滑に進む場合もあるんじゃないかなーと。

 

その場の空気、あるいは自分の行動や感情が何によってそうなっているのか、

を知っておくこと、

つまり、

主導権がどこにあるかを確認しておくことは、

自分にとっても、相手にとっても、

気持ちよく過ごすために必要なことではないでしょうか。

その中で自分のスタイルをキープする、

流されたり、抗ったりするのではなく、流れにのること、

も大事だと思っています。

たしかにその意見は自分の考えとは違う。

でも、その発想もありだよね、うん。

みたいな。

 

もちろん、そんなことをいちいち考えたり計算して過ごす毎日はつまらないので、

そういう気持ちを自然に保っていられるような人間性であったり、

夫婦の関係を構築していけたらいいなー、

と思いながらこの物語を綴ったのでした。

 

この物語の2人は一体どちらが主導権を握っているのか、

そんなことにも注目して読んでもらえたら嬉しーです。

 

最後まで目を通していただきありがとうございます。

 

展示3日目終了でございます。

「夜明けの街」という話。

1月15日(金)~29日(金)までの2週間、

久茂地リバー沿いにありますたそかれ珈琲さんで、

言葉の展示、

「暮らす、綴る、繰り返す。」

をさせていただいています。

日々の生活で感じた事を10+αの物語にのせて展示しています。

このブログ上で、

展示している物語に副音声的解説を加えて、

1日1話づつ紹介していこうと思っています。

 

今日はその第1弾です。

(以下、展示しているお話です)

 

「夜明けの街」

 

AM 6:58

 

寝室をこっそり抜け出し、

助手席に缶珈琲と1冊の本をのせ、まだ薄暗い夜明け前の街へ。

 

この歳になって、

飲み会の雰囲気だけでなく、お酒の味も楽しめるようになった(つもりでいる)。

そうやって夜な夜な遊ぶようになったおかげで、

高揚感と空虚感に包まれながら1日は終わっていく、

ということ、

つまり、1日の終わり方を覚えた。

 

では、1日のはじまり方はどうなっているのだろう、

と疑問を抱き、

さっそく車を走らせ、街を見下ろすことができる高台へと向かった。

 

ベンチに腰掛け、本を読みながら1日のはじまりを待とうと思ったが、

僕が想像していた以上に世界は暗かったので、

ジョギングをしている人と簡単な挨拶を交わす以外は特に何をするでもなく、

ただただそこに存在していた。

 

薄暗い街に少しずつ光が届き、

世界がゆっくりとそれぞれの色に染まっていく。

その様を眺めていたら、

この街の住人は、みんな箱に入れられていて、

その箱に取り付けられている小さな窓から、誰かに観察されている、

というおとぎ話のような世界も、

もしかしたら本当にあるのかもしれないと思った。

 

僕が想像していたよりも、

ずっと静かに、ゆっくりとこの街は動きはじめていた。

それはどこか、

1日の終わり方と似ているような気がした。

 

そして、

鮮やかさと力強さを内に隠すかのように、光が街の隅々にまで届いた頃、

僕は車に乗り込み、

朝の街へと走り出した。

 

(以上、展示しているお話です)

 

これはほぼほぼ実話です。

ここ最近、

友達と遊ぶ=飲みに行く、

というようなことが続いていて、

なんか違うぞ??

って思ったんですよね。

小学生の時は朝7時前から友達の家で桃鉄やってたし、

中学生の時は部活やってるってーのにさらにサッカーやってたし、

高校生の時はなーんにもないのに休日に学校に行ったり、買い物に行ったり。

遊ぶって言ったらこんなにバリエーションがあって、

その中で生きていくために必要なこととか、

本当にどーでもいいようなこととかを身につけたのに、

歳を重ねて身につけたモノは脂肪と情報ばっかり。

 

それで、

じゃー夜じゃなくて朝遊んでみよう、

元旦じゃなくたって日の出を見よう、

と思いつき、

夜な夜な寝室を抜け出し、車で首里の高台へ行きました。

っで僕は日の出まで本を読んで過ごそうと思ったんです。

でも外は暗すぎて、本の字が見えなくて。

馬鹿みたいだけど、

太陽が出てくるまで本の字が見えないほど世界は暗い、

ってことに気が付かなかったんです。

街頭や人気があって明るいはず、

とどこかで思っていたのでしょう。

 

それからは街、空、海が刻々と色を変えていくのをただただ眺めて、

人が活動しはじめ、色々なところから響いてくる音を聞いて、

1日のはじまりのエネルギーや喜びみたいなものを、

体中で浴びてその時間を過ごしました。

世界に少しづつ光が差し込んで、

だんだん街の隅々にまで光が届いていく様子を見ていたら、

この世界の窓を開ける係が上空にいるんじゃないかと思い、

本文にそんな一文をいれました。

なんでもない1日だけど、

1日のはじまりは神秘的で美しいモノでしたよ。

 

1日のはじまりと終わりは、

まったく別のモノだけれど、

高揚感と空虚感、喧噪と静寂、

といった相反するモノが存在していて、

その空気感や時間の進み方がなんとなく似ていたなーと思い出しながら、

この物語を綴ったのでした。

 

最後まで目を通していただきありがとうございます。

 

展示2日目終了でございます。